§5-1 西ヨーロッパ世界の成立
ヨーロッパの風土と気候
- ヨーロッパの地理は、西岸海洋性気候の支配する西ヨーロッパ、地中海性気候の支配する地中海地方、大陸性気候の支配する東ヨーロッパに大別される。
- ヨーロッパの民族は、インド・ヨーロッパ(印欧)語族を主として、ウラル語系・アルタイ語系民族も見逃せない! ヨーロッパの風土と気候
ゲルマン人の大移動
- 古ゲルマン時代、ゲルマン人は初めバルト海沿岸に住んでいたが、次第に南下し先住のケルト人を駆逐した。
- その頃のゲルマン人は約50の部族集団(キヴィタス)に別れ、身分別階層があった。また、重用な決定は青年男性自由人による民会で行われた。
- アジア系遊牧民フン族は、東ゴート人とその土地を征服、次に西ゴート人を圧迫した。後に西ゴート人は、時の権勢ローマ帝国に保護を受けた。ここからゲルマン人の大移動が始まる。
- ゲルマン人の大移動で、ヴァンダル人は北アフリカに、ブルグンド人はガリア東南部に、フランク人はガリア北部、ランゴバルド人は北イタリアへ移動しそれぞれ王国を建てる。
- アングロ・サクソン人は大ブリテン島に渡り9Cまでにアングロ・サクソン七王国を建てた。 449-829 ゲルマン人の大移動
- 西ゴート人は、ローマの東西分裂に乗じてローマを略奪しそののちイベリア半島で西ゴート王国を建てた。 418-711 ゲルマン人の大移動
- フン人のアッティラ王は、ドナウ川中域のパンノニアに帝国を建てた。が、侵略戦であるカタラウヌムの戦い(451)で、西ローマ・ゲルマン連合に敗れ、後、彼の死後帝国は崩壊する。 Z434-453 ゲルマン人の大移動
- 東ゴート人は、テオドリック大王の下フン人の支配から脱出し、イタリア半島で東ゴート王国を建てた。 493-555 ゲルマン人の大移動
- フランク王国メロヴィング朝はゲルマン人の大移動の際、メロヴィング家のクローヴィスがフランク人を統一して建てた国である。正統アタナシウス派へ改宗(496)したことが長命の一因となった。 481-751 ゲルマン人の大移動
- メロヴィング朝は次第に衰え、各分国の宮宰(マヨル=ドモス)の一人である中ピピンはこれを打倒し、王国の再統一を諮った。 751-987 ゲルマン人の大移動
- 中ピピンの息子であるカール・マルテルは、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を撃退し、その息子小ピピンは、後にカロリング朝を開いた。 732 ゲルマン人の大移動
ローマ=カトリック教会の成立
- ローマ=カトリックの五本山とはローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレムにある教会のことである。
- ローマ司教は第一使徒ペテロの後継を自任し、教皇として権威を高めた。これがビザンツ帝国との不和の種となる。
- 聖ベネディクトゥスは、中部イタリアのモンテ=カシノに「祈り、そして働け(ベネディクトゥス戒律)」をモットーとする修道院を建てた。これが元で、各地にベネディクト派修道院が建てられるようになった。 480-543
- 教皇グレゴリウス一世はビザンツ帝国からの独立のため、ゲルマン人への布教を推進した。 Z590-604
- ビザンツ帝国皇帝レオン3世が発布した「聖像禁止令」に対し、布教上の理由からローマ教会はこれに反発し、両者の対立は深まった。 726
カール大帝
- もともと教皇と懇ろだったメロヴィング朝の小ピピンは、ランゴバルド王国との戦いで獲得したラヴェンナ地方を教皇に寄進し(ピピンの寄進)、ここに教皇領が誕生した。 756
- 小ピピンの子、カール大帝(シャルルマーニュ)は即位後、積極な対外侵略によって西ヨーロッパの殆どを統一した。 Z768-814
- ローマ教会のレオ3世は東のビザンツ帝国に圧力をかけるためカール大帝にローマ皇帝の冠を授与し(カールの戴冠)、「西ローマ帝国」の復活を宣言した。 800
- カール大帝は自国内の土地を伯(有力豪族)に支配させ、巡察使を派遣しこれを監督させた。
- カール大帝自身は文盲だったが、彼は文教政策を推し進め、カロリング・ルネサンスを現出させた。この時代の西ローマ帝国は、古典文化・キリスト教・ゲルマン的要素の入り混じる新しい世界と言える。
分裂するフランク王国
- フランク人は慣習的に分割相続制だったため、その王国はいつも不安定であった。そのためカール大帝の死後内紛が起こり、ヴェルダン条約によって 長兄ロタールは中部フランク及び北イタリア、次男ルートヴィヒは東フランクを、三男シャルルは西フランクを獲得した。 843
- ロタールの死後、中部フランクは無政府状態となり、土地をめぐり弟二人の間で戦いが再燃した。結果、メルセン条約で中部フランクを分割し、東フランクはドイツ、西フランクはフランスの基礎となった。 870
- 東フランクでは、カロリング家が途絶えると各有力諸侯の選挙で王が選ばれるようになった。ザクセン家のオットー1世(Z936-973)はマジュール人を撃退し、北イタリアを制圧して教皇から皇帝の位を賜った(962)。これが神聖ローマ帝国の始まりである。 962-1806
- 西フランク王国では、シャルル死後からノルマン人の侵入が絶えず、カロリング家断絶とともに、ノルマン人に対し防衛に努めたロベール家の血を引くパリ伯のユーグ=カペーが即位しカペー朝を開いた。 987-1328
外部勢力の侵入とヨーロッパ世界
- 9-1C頃、北ヨーロッパを現住地とするノルマン人がヴァイキングとして略奪を目的に各地へと海上遠征を行った。
- デンマーク産のデーン人は、首領ロロ率いる一派が北フランスに上陸し、ノルマンディー公国を建てた。その後、ルッジェーロ2世が南イタリア・シチリアにて両シチリア王国を建てた。
- また、デーン人はイングランドにも侵入を繰り返し、一時はウェセックスの王・アルフレッド大王(Z871-899)がこれを撃退するも、デンマーク王子クヌート(Z1016-42)が征服し、デーン朝が開かれた。
- デーン朝はクヌート死後急速に瓦解し、イングランドでは再びアングロ・サクソン系の国家が復活する。が、ノルマンディー公・ウィリアムはウェセックス伯ハロルドが大陸北部へ大群を率いた隙に乗じてヘースティングズの戦いでこれを破り、ウィリアム1世(Z1066-87)として即位しノルマン朝を開いた(1066)。 1066-1154
- スウェーデン産のスウェード人は、その一派であるルーシのリューリクが東スラヴ人に招かれ、ノヴゴロド国を建てた(862)。次いでリューリクの身元引受人であるオレーグが後を継ぎ、キエフ王国(9C-13C)を建てた。
封建社会の始まり
- ヨーロッパの中世は、長引く混乱により武力・現物主義に傾倒した。この中で、古代末期ローマの恩貸地制度と古ゲルマンの従士世がミックスされ、主君である弱者が地方の有力者に土地(封土)を貸与し、双務的契約の主従関係(封建的主従関係)を結ぶ「封建制」という制度が流行った。
- 封建社会において、支配階級は、いずれも身分上「騎士」とされ、幼少より騎士道精神が重視され、イニシエーション(臣従礼)もあった。
- 封建社会において、家臣が領主より与えられた土地は荘園と呼ばれ、領主直営地・農民保有地・山林/湖沼から構成され、領主には裁判権・不輸不入権などの特権があった。
- 荘園で働く半自由農民を農奴と呼び、労働義務(賦役)・納品義務(貢納)、結婚税・死亡税も課せられた。また、教会からは10分の1税が課せられた。
- 荘園の収益方法は、三圃制農法の生産能力向上により、初期の賦役主体(古典荘園)から、より労働意欲の上がりやすい貢納主体(純粋荘園)へとシフトした。
教会の権威
- 封建社会の成熟を通じ、ローマ=カトリック教会はローマ教皇から、大司教、司教・司祭、修道院長などから成る階層制組織となる。また、村や都市を一定の区域に分け、区域ごとに布教活動をした(教区教会)。また、広大な領地を持つ聖職者(聖会諸侯)も誕生した。
- ローマカトリック教会は自然、聖職売買や妻帯など次第に腐敗・俗化してゆき、910年、ついにクリュニー修道院を中心として修道院運動が起こった。この運動では、ベネディクトゥス戒律の厳格な運用や私闘の禁止(神の平和)も謳った。
- 修道院運動はベネディクトゥス派の修道院の間に急速に伝播し、時の教皇グレゴリウス7世(Z1073-85)もこれを推し進めた。彼は教会を統治の基本に置くドイツ国王ハインリヒ4世(1056-1106)との間に軋轢を生み、これがカノッサの屈辱へと繋がった。 1077
- ヴォルムス協約によって聖職叙任権は教皇が、ドイツ内の領地権は皇帝がもつ、と定められた。これにより東ローマ帝国は叙任権を200年ぶりに失い、聖職叙任権闘争が終わりを迎えた。 1122
- インノケンティウス3世は周辺の王を次々と破門し、教皇権の絶頂期を迎えた。「教皇権は太陽で、皇帝権は月だ」 Z1198-1216