§5-2 東ヨーロッパ世界の成立
ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
- 6世紀、ビザンツ帝国ユスティニアヌス帝は周辺のヴァンダル王国や東ゴーロ王国を滅ぼし、以前のローマ帝国の領土を回復した。また、トリボニアヌスに『ローマ法大全』を編纂させた。また、ハギア・ソフィア聖堂を建設した。
- ビザンツ帝国では、軍管区(テマ)制と呼ばれる、領土をいくつかの軍管区に分け、司令官に行政もまるなげする制度が用いられた。またこの制度は屯田兵制に依るところが大きかった。
- ビザンツ帝国ではギリシア語を公用語とし、ギリシア古典文化の影響を濃く受けた。また、ビザンツ様式の建築や、モザイク壁画、聖像画(イコン)が誕生した。
- コンスタンティノープル ビザンツ帝国の首都
- 皇帝教皇主義 ビザンツ帝国において、皇帝がギリシア正教の役職の任免権を握り、政教ともに支配していたこと
スラヴ人と周辺諸民族の自立
- 東スラヴ人は、ロシアに入植したノルマン人と同化し、ノヴゴロド国、次いでキエフ公国が建国された。
- キエフ公国では、ウラディミル一世が領土を拡大し、公国の最盛期を見出すとともに、ロシアのビザンツ化と農奴制を進めた。
- 13C半ば、キエフはバトゥの攻撃によりキプチャク=ハン国の属国となり、250年に渡りモンゴル支配に屈した(タタールのくびき)。
- 1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世はモンゴルから独立した。また、首都であるモスクワを「第3のローマ」と謳った。
南スラヴ人の最大勢力であるセルビア人はドナウ川を抜けバルカン半島に侵入(7C)、その後キリスト教を受容しビザンツ帝国の支配下となる。11Cにセルビア王国樹立もオスマン帝国に占領される。
南スラヴ人の一派であるクロアティア人は7C頃、カルパティア地方よりバルカン半島西南部に定住した。後にフランク王国に服属しカトリックを受容した。10Cぶ王国建国も、11C末にハンガリーの属国となる。
西スラブ系のポーランド人は、10C頃王国を建国し、ローマ=カトリックを受容した。14C前半カジミェシュ大王はクラクフ大学の創設や法典の整備などに尽力し、そのもとで王国は繁栄した。
ドイツ騎士団への対抗を目的としてポーランド女王とリトアニア大公ヤゲウォが結婚し、ヤゲウォ朝リトアニア・ポーランド王国を建国する。
- ブルガリア王国 トルコ系遊牧民のブルガール人がバルカン半島東南部に立てた 681