§5-4 西ヨーロッパ中世文化
学問と大学
- 中世文化は「哲学は神学の婢」と言う言葉からもわかるよう、神学が中心だった。ローマではラテン語が日常的に使われ、ヒエロニムスがラテン語版聖書を上梓した。
- [中世文化] カール大帝による古代文化復興運動(カロリング・ルネサンス)が流行った。英神学者アルクインは彼に招かれアーヘンなどで活躍した。このころ、現在の活字体の基礎となるカロリング小字体も作られた。
- [中世文化] ギリシア哲学をキリスト教会の教理に合わせて改変し体系化した「スコラ哲学」が誕生した。近代自然科学を開いたロジャー・ベーコンがいる。
- [中世文化] スコラ哲学ではアンセルムスが提唱した実在論、アベラールによる唯名論が対立した(普遍論争)。トマス・アクィナスがアリストテレス哲学を取り入れスコラ哲学を大成した。
- 神学大全 アンセルムス
- 12世紀ルネサンス 西ヨーロッパで十字軍が始まった12世紀頃、東方との交流により学問や文芸が大いに発展したこと。
- 12世紀頃、教会や修道院付属の研究機関として大学が誕生した。この頃は必須学科として自由7科が、選択学科として3学部(神・法・医)があった。仏パリ大学、英オクスフォード大学、世界最古の北伊ボローニャ大学、医学の権威南伊サレルノ大学などが誕生した。
美術と文学
- [中世文化] 文学では、武勲詩ローランの歌(11末・北仏)、騎士道物語アーサー王物語(12C・英)、民族叙事詩ニーベルンゲンの歌(13C初・独)などが誕生した。
- 吟遊詩人 中世で、騎士道物語を詠ったヤツラ。
- 西方は、高い建築技術を持つ東方とは対照に、分厚い壁と小窓が特徴のロマネスク様式や、尖頭アーチや高い天井、ステンドグラスを特徴とするゴシック様式などが誕生した。
- ロマネスク様式はピサ大聖堂(伊)、ヴォルムス大聖堂(独)、クリュニー修道院(仏)などに用いられた。
- ゴシック様式はケルン大聖堂(独)、ノートルダム大聖堂(パリ)などに用いられた。
- 神学大全 アンセルムス
- 12世紀ルネサンス 西ヨーロッパで十字軍が始まった12世紀頃、東方との交流により学問や文芸が大いに発展したこと。 学問と大学
- 吟遊詩人 中世で、騎士道物語を詠ったヤツラ。 美術と文学
§5-3 西ヨーロッパ中世世界の変容
十字軍
- 三圃制や重量有輪犁の発明による開放耕地制の普及 / 水車の発明 などの農業効率の向上により人口が増加する。
- 西ヨーロッパの人口増加により、オランダの干拓やアルプス高地の開拓を始めとする、大開墾運動が起った。ドイツ人によるエルベ川以東のスラヴ人居住地に対し行った「東方植民」は強烈。また巡礼も流行した。 12-13C
- ウルバヌス2世が開いたクレルモン宗教会議で、セルジューク朝に対する軍事攻撃(十字軍)が提唱された。200もの間断続的に失敗続きに終わり、教皇権の失墜に繋がった。 1095
- [十字軍] 宗教会議の翌年、第1回ではイェルサレムを奪還し、その後イェルサレム王国が誕生した。この時、巡礼の保護のための宗教騎士団としてヨハネ騎士団やテンプル騎士団が設立された。 1096-99
- [十字軍] 第2回では、サラディンの登場によりあえなく負け、さらに彼の建てたアイユーブ朝によりイェルサレム王国が奪還される(1187)。 1147-49
- [十字軍] 第3回では、ドイツ皇帝フリードリヒ1世・イギリス王リチャード1世・フランス王が征くが、半ばで仲人のドイツ皇帝が死にアッコンを奪回後、仲違いによりイギリス王単独で戦うも負ける。また、この時ドイツ騎士団が設立された。 1189-92
- [十字軍] 第4回は、インノケンティウス3世により提唱されるも、ヴェネツィアの進言によりなぜかコンスタンティノープルを攻撃・占領し結果ラテン帝国が樹立する。この後、少年十字軍が集う(1212)。 1202-04
- [十字軍] 第5回では、一度中継地点に辿り着く前に敗北するも、親イスラームの皇帝フリードリヒ2世の交渉によりイェルサレムが回復する。しかし再び奪われる(1244)。 1219-32 / 28-29
- [十字軍] 第6回では、ルイ9世がイェルサレムのまたの奪還に憤慨し、単独で行った。しかし、アイユーブ朝に変わったマムルーク朝により撃破される。彼は後に第7回を結成するも攻撃先の北アフリカのチュニスにて病没(1270)。 1248-54
商業上の発展
- 西ヨーロッパでも特に地中海東岸地方(レヴァント)のヴェネツィア・ジュノヴァ・ピサなどの都市は北イタリア諸都市と絹織物・香辛料などの東方貿易で隆盛した。内陸都市であるミラノ・フィレンツェでは金融業が発達した。
- 北ヨーロッパでは北海・バルト海を利用した北海・バルト海貿易が発展し、なかでも北ドイツのリューベック・ハンブルク・ブレーメン、フランドル地方のガン・ブリージュ、イギリスのロンドンなどが中心となって北ヨーロッパ商業圏を作った。
- 遠隔地商業と結びつき、余剰生産物で定期市が開かれるようになった。特にパリ東南のシャンパーニュ地方では隆盛。
中世都市の成立
- 11-12C以降、商工業の発達に伴い領主から自治権を獲得し(特許状)、各地に置かれた司教座都市を中心として自治都市ができた。イタリアでは自治権を領主から買い取り市民が自治する「コムーネ」が、ドイツでは領主の下で諸侯と同格の権利を与えられ運営する帝国都市(後に自由都市)などがある。
- 自立しても人口・規模が小さい自立都市は寄り集まり、「都市同盟」を締約した。フリードリヒ1世に対抗してのミラノ中心でのロンバルディア同盟、リューベックを盟主とするハンザ同盟など。
- 中世都市では、ギルドと呼ばれる同業組合を作った。商人は相互扶助と市場独占を目的とする商人ギルドを、手工業者は親方―職人―徒弟を単位とする厳格な規約を持つ同職ギルドを作った。
- 13C中頃以降、諸都市でツンフト(同職ギルド)が、先に独占していた商人ギルドに対する闘争(ツンフト闘争)が頻発した。
- 中世都市の発展に伴い、アウグスブルクを本拠地としたヨーロッパ随一の金融業者であるフッガー家や、フィレンツェの市政を掌握するフッガー家など有力商人が登場した。
封建社会の危機
- 13-16世紀頃、黒死病の流行と人口減少により農民が農奴を脱し生産物・貨幣地代制の「独立自営農民(ヨーマン)」として働く「農奴解放」が起った。中には封建社会の回帰を狙い「封建反動」を起こす領主もいた。
- 農奴解放の嚆矢として、ギヨーム=カールによるジャックリーの乱(1358)や、ワット=タイラーの乱(1381)などの農民一揆が起った。ワットタイラーの乱はワット・タイラーとその指導者ジョン・ポール("アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか")が指導。
- 貨幣経済の普及により国王は位置を高め、対して火器の使用・傭兵の流行などの戦術の変化により騎士は遍く没落し国王の宮廷で働く官僚(廷臣)などになった。
教皇権の衰退
- 財源を希求していたフランス王フィリップ4世は聖職者に対する課税を目論見、強硬に反対したローマ教皇ボニファティウス8世はアナーニに幽閉された(アナーニ事件)。その後、彼はクレメンス5世から連なるローマ教皇を7代69年間アヴィニヨンに強制移住させ監視下に置いた(教皇のバビロン捕囚)。
- 教会大分裂(大シスマ) アヴィニヨンにいる教皇に対しドイツ皇帝・イギリス王が新たにローマに教皇を擁立し、互いに正統を主張した。 1378-1417
- ウィクリフは、イギリスの神学教授で、聖書の英訳を図り宗教改革運動の嚆矢となった。
- ウィクリフの宗教改革運動にチェコのフスは共鳴し民族運動を指導したため、コンスタンツ公会議にて処刑される。その後、処刑が原因でフス戦争が起こった。
イギリスとフランス
- イギリスではノルマン朝が滅び、代わりにアンジュー伯アンリ(即位後ヘンリ2世)によってプランタジネット朝が開かれた。ヘンリ2世の子のジョン王は対フランス戦で連敗し大陸領を失った上、教皇から破門された。
- 大憲章(マグナ・カルタ) 英ジョン王の失敗に対し、貴族が団結して認めさせた名分法。イギリス憲法の基礎となった。 1215
- ジョンの長男であるヘンリ3世は大憲章を始め無視したが、貴族の反乱に屈服した。また、シモン・ド・モンフォールらの反乱(1258)に屈し、イギリス議会を承認した(1265)。 Z1216-72
- 模範議会 英エドワード1世(Z1239-1307)が開催した、各階級2名からなる身分制議会 1295
仏カペー朝はもともと北フランスの弱小国だったが、フィリップ2世が英ジョン王から領地を奪ったり、ルイ9世がアルビジョア派を制圧しして、強くなった。
- 仏カペー朝のフィリップ4世はボニファティウス8世との闘争に備え、フランス議会の基礎となる三部会を設立した。
百年戦争
- 仏王は毛織物産業が盛んなフランドル地方を統治しようとした。仏カペー朝断絶の際、英王エドワード3世がこの地域の王位継承権を主張し、戦争が起こった(百年戦争)。 1339-1453
- [百年戦争] はじめ、クレシーの戦いやポワティエの戦い(エドワード黒太子の活躍による)などでイギリスがフランスに大勝していた。
- [百年戦争] ジャンヌ・ダルクの登場により、率いられた仏軍によってオルレアンに孤立していた仏王シャルル7世が救出され、仏軍の優位を回復し勝利した。結果、仏北海岸のカレー以外は領地を回復した。
- [百年戦争] 後、イギリスでは多くの貴族がランカスター家とヨーク家の両派に別れ、王位継承をめぐり内乱を起こした(バラ戦争)。その後ランカスター家のヘンリ(即位後ヘンリ7世)がテューダー朝を開いた。
- 星室庁裁判所 仏ヘンリ7世が設立した、国王直属の特別裁判所。 1487
スペインとポルトガル
- 国土回復運動(レコンキスタ) キリスト教徒がイベリア半島からイスラーム教徒を駆逐しようとした運動 718-1492
- [国土回復運動] 主に半島東部はアラゴン王国(1035-1479)、中部はカスティリャ王国(961-1479)、西部はポルトガル王国(1143-1910)が担当した。
- [国土回復運動] 1469年、カスティリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド5世が結婚した。79年両国合併後スペイン王国が誕生し、同年にナスル朝のグラナダを制圧しレコンキスタ完了。
ヨーロッパ諸国
- 東方植民後、仏皇帝はブランデンブルグ辺境伯領手に入れ、ドイツ騎士団はバルト海沿岸に領を獲得する。
- 仏皇帝は歴代に渡りイタリアへ干渉し、うちやっていたフランス内は300もの封建的小国家(領邦)に別れた。
- フランスでは、13世紀初めシュタウフェン朝が滅亡し、それから20年間名目だけの皇帝が立てられた(大空位時代)。 1256-73
- カール4世は金印勅書を発令し、皇帝選出権を7人の聖俗諸侯(選帝侯)に委ねることで教皇権の強化を図った。
- 15C以降はハプスブルク家が仏皇帝を連続して占めた。農民や市民はこれに対して独立抗争を開始し(1291)、スイスを樹立した。
- イタリア南部ではシチリア貴族による反仏大反乱(シチリアの晩鐘)が起こり、両シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国に分裂した。 1282
- イタリア北部ではヴェネツィア共和国(アドリア海の女王)、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国などの都市共和国が乱立した。また、教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)が抗争を広げていた。
- カルマル同盟 北欧3国がデンマーク女王マルグレーテのもと同君連合を結成した同盟 1397
- デンマーク連合王国 カルマル同盟に従って成立した王国 1397-1523
§5-2 東ヨーロッパ世界の成立
ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
- 6世紀、ビザンツ帝国ユスティニアヌス帝は周辺のヴァンダル王国や東ゴーロ王国を滅ぼし、以前のローマ帝国の領土を回復した。また、トリボニアヌスに『ローマ法大全』を編纂させた。また、ハギア・ソフィア聖堂を建設した。
- ビザンツ帝国では、軍管区(テマ)制と呼ばれる、領土をいくつかの軍管区に分け、司令官に行政もまるなげする制度が用いられた。またこの制度は屯田兵制に依るところが大きかった。
- ビザンツ帝国ではギリシア語を公用語とし、ギリシア古典文化の影響を濃く受けた。また、ビザンツ様式の建築や、モザイク壁画、聖像画(イコン)が誕生した。
- コンスタンティノープル ビザンツ帝国の首都
- 皇帝教皇主義 ビザンツ帝国において、皇帝がギリシア正教の役職の任免権を握り、政教ともに支配していたこと
スラヴ人と周辺諸民族の自立
- 東スラヴ人は、ロシアに入植したノルマン人と同化し、ノヴゴロド国、次いでキエフ公国が建国された。
- キエフ公国では、ウラディミル一世が領土を拡大し、公国の最盛期を見出すとともに、ロシアのビザンツ化と農奴制を進めた。
- 13C半ば、キエフはバトゥの攻撃によりキプチャク=ハン国の属国となり、250年に渡りモンゴル支配に屈した(タタールのくびき)。
- 1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世はモンゴルから独立した。また、首都であるモスクワを「第3のローマ」と謳った。
南スラヴ人の最大勢力であるセルビア人はドナウ川を抜けバルカン半島に侵入(7C)、その後キリスト教を受容しビザンツ帝国の支配下となる。11Cにセルビア王国樹立もオスマン帝国に占領される。
南スラヴ人の一派であるクロアティア人は7C頃、カルパティア地方よりバルカン半島西南部に定住した。後にフランク王国に服属しカトリックを受容した。10Cぶ王国建国も、11C末にハンガリーの属国となる。
西スラブ系のポーランド人は、10C頃王国を建国し、ローマ=カトリックを受容した。14C前半カジミェシュ大王はクラクフ大学の創設や法典の整備などに尽力し、そのもとで王国は繁栄した。
ドイツ騎士団への対抗を目的としてポーランド女王とリトアニア大公ヤゲウォが結婚し、ヤゲウォ朝リトアニア・ポーランド王国を建国する。
- ブルガリア王国 トルコ系遊牧民のブルガール人がバルカン半島東南部に立てた 681